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大阪地方裁判所 平成4年(ワ)3262号 判決

原告

上田一夫

右訴訟代理人弁護士

河合伸一

河合徹子

菊元成典

被告

和光証券株式会社

右代表者代表取締役

苫米地和夫

右訴訟代理人弁護士

木村保男

的場悠紀

川村俊雄

大槻守

中井康之

福田健次

大須賀欣一

青海利之

湯川健司

主文

一  原告の請求を棄却する。

二  訴訟費用は原告の負担とする。

事実及び理由

第一請求

被告は、原告に対し、金三六二四万円及びこれに対する平成二年一二月二九日から支払ずみまで年五分の割合による金員を支払え。

第二事案の概要

一事案の要旨

本件は、株券を盗取等により紛失したとする原告が、その株券の売却取次を受託して執行した被告(証券会社)に対し、権利者の調査や本人の確認を怠った過失があるとして、不法行為により、右株券にかかる権利喪失等による損害賠償(売却代金相当額)を求めた事案である。

二事実の経過(争いのない事実及び摘示の証拠によれば、以下の事実が認められる)

1  当事者

(一) 原告は、株式会社福徳銀行の代表取締役であり、奈良市鳥見町に居住し、大阪市中央区東心斎橋一丁目にある同行本店本部に勤務していた。

(二) 被告は、証券取引法(以下「証取法」という)二八条に基づき大蔵大臣の免許を受けた証券会社であって、全国に約八〇か所の店舗を有し、四大証券に次ぐいわゆる総合一〇社の一つである。

2  本件株券の紛失等

(一) 原告は、昭和六二年ころ、福徳銀行系列の東洋テック株式会社(当時の商号は東洋警備保障株式会社)(以下「東洋テック」という)の普通株式八〇〇〇株(以下「本件株式」という)を引き受け、その株券の発行を受けてこれを所有していた(〈書証番号略〉)。

(二) その後、原告は、東洋テックから既に発行していた株券を印刷し直すため提出するよう求められ、平成二年六月ころ、右株券を返還し、平成二年七月一二日ころ、新たに印刷された左記株券(以下「本件株券」という)が東洋テックの名義書換代理人である住友信託銀行証券代行部から書留郵便で原告の自宅宛に発送された(〈書証番号略〉)。

銘柄 東洋テック株式会社

種類枚数 一〇〇〇株券・八枚

記号番号 三Bの六一番ないし六八番

株主番号 〇〇〇〇〇一〇

最終名義人 上田一夫

(三) 本件株券を含む東洋テックの株券は、平成二年一二月二一日、大阪証券取引所第二部に上場された。

(四) 原告は、右上場の機会に本件株券の所在を確認したところ、自宅に郵送されているはずの本件株券がないことを知り、調査の結果、同年七月一二日から同年一二月二一日までの間に何者かにより盗取されたと判断し、同年一二月二七日、野村證券や第一証券等の大阪市内の支店に電話でその旨の連絡をし、翌二八日、警察に紛失届出をした。第一証券大阪支店は、平成三年一月四日、大阪証券取引所会員に本件株券の紛失の通知をし、そのころ大阪証券取引所にもその旨の掲示がなされた。また、原告は、同月七日に名義書換代理人である住友信託銀行にも紛失届をし、同月一四日には公示催告申立をした(〈書証番号略〉)。

3  被告による本件株式の売却(〈書証番号略〉、証人中井智美、同宗智子)

(一) 被告奈良支店の従業員(フロントレディー)の中井智美(旧姓中西、以下「中井」という)は、平成二年一二月二一日、これまで取引のない四〇歳位の上田一夫と名乗る男性(以下「A」という)から東洋テック株の売却方法を尋ねられ、新規取引の場合、口座開設手続と本人確認書類の提出が必要である旨を告げ、必要書類を交付した。

(二) 被告は、平成二年一二月二五日、Aから被告奈良支店に本件株券と『和光の総合取引申込書』(以下「取引申込書」という)(〈書証番号略〉)等の必要書類と健康保険被保険者証(以下「健康保険証」という)のコピー(〈書証番号略〉)等が普通郵便で郵送されてきたので、口座開設手続をし、本件株券の入庫処理をした(〈書証番号略〉)。

(三) その後、中井は、同日、Aから電話で本件株式全部を成り行きで売却するよう指示され、同日中に一株四五三〇円で八〇〇〇株全部(合計三六二四万円)を売却し、新日本証券がこれを購入した(なお、平成三年二月四日、住友信託銀行証券代行部において名義書換がなされている)。

(四) そして、被告奈良支店の従業員(フロントレディー)の宗智子(以下「宗」という)は、平成二年一二月二八日、来店したAに本件株券の売却代金三六二四万円から委託手数料二二万〇九〇〇円、消費税六六二七円及び有価証券取引税一〇万八七二〇円を控除した現金三五九〇万三七五三円を交付した(〈書証番号略〉)。

4  本件株式の配当等

本件株式に関する無償交付、株式分割、配当、株価等は次のとおりである。

(一) 無償交付(〈書証番号略〉)

平成三年五月一日 一株につき0.3株の割合による無償分割

(二) 株式分割(〈書証番号略〉)

平成四年五月一八日 一株を1.1株とする株式分割

(三) 配当(〈書証番号略〉)

平成三年三月末日を基準として、一株当たり六円

平成三年九月末日を基準として、一株当たり四円

平成四年三月末日を基準として、一株当たり四円

平成四年九月末日を基準として、一株当たり五円

5  証券会社の本人確認義務等に関する諸規定(本件当時)

(一) 大阪証券取引所定款三一条(受託に関しての調査義務)

正会員は、本所の市場における有価証券の売買取引等の委託を受けるときは、あらかじめ顧客の氏名の真否……を調査しなければならない。

(二) 大阪証券取引所受託契約準則三条

顧客が売買取引を委託する場合には、予め次の事項を会員に通告するものとする。

(1) 氏名又は名称

(2) 住所又は事務所の所在地

(3) 特に通信を受ける場所を定めたときは、その場所

(三) 日本証券業協会規則〜協会員の投資勧誘、顧客管理等に関する規則(公正慣習規則九号)三条(顧客カードの整備等)

協会員は、有価証券の売買その他の取引等を行う顧客について、次に掲げる事項を記載した顧客カードを備え付けるものとする。

(1) 氏名、住所及び連絡先

(2) 職業及び年令

(3) 資産の状態

(4) 有価証券投資の経験の有無

(5) 取引の種類

(6) 顧客となった動機

(7) 本人確認の方法

(8) その他各協会員において必要と認める事項

協会員は、有価証券の売買その他の取引等を大口現金取引により行う顧客については、当該顧客から本人確認書類の提示を受けるなどにより、本人確認を行うものとする。

なお、日本証券業協会平成二年六月二八日付協会員宛通知は、大口現金取引とは一取引当たり三〇〇〇万円以上の取引であるとし、また、本人確認方法についても詳細な規定がある。

(四) 仮名取引の受託取引等の自粛についての大蔵省証券局長通達(昭和四八年三月一五日付、同四九年五月一七日付、同六三年九月一三日付)

仮名取引の受託等の自粛について、その趣旨をさらに徹底させるよう……。

(五) マネー・ローンダリングの防止についての大蔵省証券局長通達(平成二年六月六日付)

預り資産が一定額以上となる顧客又は保護預りによらない債券取引等で一取引当たり金額が一定額以上となる顧客については、当該口座及びその取引が本人名義によるものであることの確認を一層徹底すること。

第三争点

一証券会社の株式売却取次にあたっての注意義務の内容

1  原告の主張

(一) 証券会社の注意義務の根拠

株式会社制度はわが国経済の中核を担うものであり、その健全な発展のためには、多数かつ広範囲の投資者がこれに参加し、株式等を取得して、安定的にこれを保有することが必要である。多数の投資者の参加を招来し、確保するためには、投資者の安全が十分に保護されていなければならない。投資者が保護されているといえるためには、株券を取得する際の安全(動的安全)が保護されているだけでなく、取得した株券の保有の安全(静的安全)もまた保護されていなければならない。もしこの保護が十分でなければ、それだけ投資者は、株券の保有、ひいてはその取得をためらうことになるからである。

他方において、株券の流通もまた保護されなければならない。そのために昭和四一年の商法改正により、株式の譲渡の方式は単なる株券の交付のみで足りることになり、株券の占有者は適法な所持人と推定されることになった(商法二〇五条一項・二項)。そして、上場会社の株券の売買は、そのほとんどすべてが証券取引所の開設する有価証券市場においてなされるところ、同市場における売買の当事者となり得るのは証券会社のみであり(証取法一〇七条)、かつ、同市場における売買は、定型化され、組織化された競争売買という方法により、いわば機械的に契約が成立していく仕組みとなっている。これらの結果、本件株券のような盗難株券であっても、一旦同市場における売買にかけられ、このような仕組みで証券会社によって買い受けられれば、まず確実に善意取得が成立し、その結果、本来の株主はその権利を失うことになる。

したがって、保有株券を盗取された投資者の権利喪失を防止し、投資者の静的安全を保護するためには、当該株券が同市場における売買の対象となる前に、然るべき手段が取られなければならないところ、①有価証券市場における株券の売却は、すべて証券会社でなければすることができず、株券を盗取した者は、これを証券会社に持参して売却の取次を委託するほかこれを同市場で換価する手段がないから、証券会社は、盗難株券の善意取得を阻止するための最後の関所を押さえているものといえ、②証券業における仲介者として重要な地位を占め、投資者保護にも万全を期することが期待されていることや、証券会社が金融・資本市場の大きな担い手として成長し、国民経済の中で証券投資が重要な資産形成手段として一般化しつつあることなどに鑑みれば、証券会社には、株式の売却の取次を受託するに際し、投資者の静的安全保護のため、相当の注意を尽くすべき義務があるというべきである。

(二) 権利者調査義務

一般に、何人も自己の行為によって他人の権利を侵害することのないよう常に注意すべきことは当然であるところ、盗難株券等について権利者の権利喪失が生じるのは証券市場での売却によるのがほとんどであるから、その売却を業務として担当しかつ独占する証券会社は、そのような権利侵害を生ぜしめないよう、当該売却取次委託が真の権利者からのものであるか否かについて、常に注意する義務を負っているというべきである。そして、証券投資及び投資者保護の社会的重要性、それに関して証券会社の占める特殊な地位、その専門性・業務性からして、この注意義務は特に高度なものと解さなければならない。

株券の占有者は適法な所持人と推定されるから、本人確認ずみの委託者が株券を占有している場合は、原則として、特別の調査までする必要はない。しかし、その場合でも、前記の注意義務が免除されるわけではなく、委託者が当該株券の真の権利者であるか否かの確認の必要性を常に念頭におき、注意を怠ってはならない。そして、その点につきいささかでも疑わしい状況があるときは、その状況に応じた適切な調査をしなければならない。

(三) 本人確認義務

証券会社は、株式の売却の取次を受託するに際し、前記大阪証券取引所定款等の諸規定に定められたとおり、その委託者が何人であるかを確認する業務上の義務(以下「本人確認義務」という)を負っている。そして、本人確認が的確に励行されることは、無権利者の売却取次委託を予防する効果をも生ずるのであり、したがって、この義務を尽くすことは不法な権利侵害を防止するのにきわめて有益であり、同義務を不法行為上の注意義務とするのが相当である。

なお、委託者が本人確認に応じない等不審な行動をした場合、その他取引の過程において委託者が当該株券の真実の権利者でないことを窺わせる何らかの徴候があった場合、証券会社としては、その委託に応じないか、一旦受託してもこれを完了しないようにするべきであり、状況によってはさらに進んで、発行会社を通じて真実の権利者に連絡し、あるいは司法機関に通報する等、投資者の静的安全保護のため、適切な処置をとるべきである。

2  被告の主張

(一) 権利者調査・本人確認義務の趣旨

証取法一条は、「取引の公正」と「有価証券の流通を円滑ならしめること」を目的とし、その趣旨は、「取得した株券の保有の安全」ではなく、「市場における公正な取引」を保護することに力点がある。

同法に関連する前記通達・規則等も、一般投資者が証券会社を通じて市場における取引に安心して参加するために、取引の適正を図ることなどを証券会社に求めているものであって、投資者の静的安全の保護を特に求めたものではない。

証券会社が、前記通達・規則等により、顧客との取引に際して当該顧客について本人確認義務を負っているのも、投資者の静的安全を保護することを直接の目的としているものではなく、その第一の目的は、証券会社を通じて株式等の取引をする顧客たる投資者のために適正かつ健全な証券投資を確保し、投資活動を保護することであり、第二の目的は、架空名義・他人名義等の取引に由来する不正(マネー・ローンダリング、インサイダー取引、脱税等)を未然に防止することにある。

(二) 証券会社の注意義務の程度(重過失基準説)

法は、株式の流通を保護するために、株式の譲渡は株券の交付のみで足りることとし、株券の占有者は適法な所持人と推定し、かつ、株券の善意取得を認めている。

今日、株式の流通は、証券取引所の開設する有価証券市場において、瞬時に大量になされており、したがって、有価証券市場における株式売買は、迅速かつ安全に実行されることが強く要請されている。

有価証券市場における株式の価格は、その時々の需要と供給の市場メカニズムにより、日々刻々と変動しているから、証券会社が顧客から株式の売買の取次の委託を受けたときは、これを速やかに有価証券市場に発注して顧客の注文に応じた取引を成立させることができなければ、株式の流通を保護したことにならない。

前記のとおり法は株券の占有者を適法な所持人と推定すると規定するが、株券の占有者から当該株式の売却の取次の委託を受けたとき、株券の占有者の権利を調査することなくその注文を執行しても証券会社の責任が問われないのでなければ、右規定は実質的意味を失う。

したがって、証券会社が責を負うのは、株券の占有者が無権利者と知っていたか(悪意)、わずかの注意を払えば無権利者であると分かったのに、かかる注意を払わなかった場合(重過失)に限られるというべきである。

このことは、株券を呈示して会社に対し名義書換請求のあった場合、無権利者に対して名義書換をした会社が真実の権利者に対し責任を負うのは、会社に悪意・重過失のある場合に限られ、また株券の善意取得が成立しないのも、譲受人に悪意・重過失のある場合に限られていることからも明らかである。

二被告の過失の有無

1  原告の主張

(一) 権利者調査義務違反

(1) 本件売却取次委託においては、次のとおり、委託者が正当な権利者でない可能性、あるいは、株券を不正に所持する者がこれを売却しようとしている可能性を示す異例な状況があった。

① Aが上場前から本件株式を八〇〇〇株も所有していたとすれば、新規上場直後にこれを売却するのは不自然であるし、税務上も不利なはずである。

② Aは、売却価格について「成り行きで」と指示するなど株式取引に慣れていると思われるにもかかわらず、なじみの証券会社に委託せず、いわゆる飛び込みの一見客として被告に来店している。

③ Aは、唯一の本人確認書類として健康保険証のコピーを送付し、自宅や職場への電話を断り、預り証や領収書に利き手でないと推測される左手で署名し、本件株券の預り証の送付を拒否するなど、本人確認を不可能又は著しく困難とするような工作をし、また、株券・必要書類を普通郵便で郵送するなど、取引後の追及を不可能又は著しく困難とするような工作をしている。

(2) したがって、被告としては、届出住所(被告店舗と至近距離にあった)への訪問、届出勤務先への電話での確認、発行会社への照会等、不正売却でないことを確認するため、何らかの調査をするべきであった。

(3) しかるに、中井らは、右調査を行っていないから、被告には、権利者調査義務に違反した過失がある。

(二) 本人確認義務違反

被告は、Aからの売却取次の受託から売却代金支払までの間、次のとおり、Aの氏名・住所等の身元を十分に確認していないから、本人確認義務に違反した過失がある。

(1) 被告にとって、Aの本人確認のための資料としては、記載済の取引申込書と健康保険証のコピーしかなかった。

ところで、まず、取引申込書は、委託者がどうにでも書けるものである。したがって、その記載内容が真実であることの裏付を取らなければ本人確認にはならない。

次に、コピーの場合、複写機によって容易に不正の書類を作出できることは一般に知られた事実であるから、記載内容が真実であることの裏付を取らなければ本人確認にはならず、結局、健康保険証による本人確認は、原本によらなければならない。

(2) 三千数百万円という売却代金について、全額現金での支払を要求するのは異例のことであるから、被告としては、これを不審として、再度本人確認書類の呈示を求め、それがなければ一時支払を留保して何らかの調査をする等、不詳者との取引が問題のないものであることを確認するべきであったのに、これもしなかった。

(三) 以上のとおり、中井・宗など被告奈良支店の従業員である被告の被用者らは、株式売却取次業務という事業の執行につき、過失があったから、被告はその使用者として、これによって原告が被った損害を賠償する義務がある。なお、右取引には被告奈良支店の複数の従業員が関与しており、また、権利者調査及び本人確認の必要性及び方法等についての従業員教育も不十分であったから、前記の過失は被告自身の過失とも評価できる。

2  被告の主張

(一) 権利者調査義務違反に対する反論

(1) 原告は、Aの売却取次委託時には、異例な状況があったと主張するが、その指摘する事実は何ら異例なものではない。

① 新規上場直後に八〇〇〇株程度の株式を売却するのは、税務上の問題を含め、特に不自然なことではない。

② 「成り行きで」と注文したからといって、直ちに株式取引に慣れているとも、なじみの証券会社があるともいえない。

③ 原告が本人確認や取引後の追及を不可能又は著しく困難にする工作として主張する事実はいずれも、Aの無権利を当然に疑うべき不自然な事情とまではいえない。

(2) しかも、中井が後記のとおり本人確認手続を正当に履行していたことに鑑みれば、原告の主張する事実を総合しても、いまだAが本件株券の適法な所持人であるかについて、相当な疑いをもって売却の取次の受託を拒否するか、売却の執行を中止すべき特段の事情は認められないというべきである。

(3) のみならず、顧客から真正な株券の送付を受け、売却の取次の委託を受けた証券会社が、売却の執行を中止し、その結果、当該株券を高価で売却できず、株価が下がってからしか売却できなかったときは、顧客からその差額について損害賠償請求を受けるおそれがあり、そのとき、顧客は株券の占有者であることを立証すれば足り、被告としては、当該顧客が株券の占有者でありながら適法な所持人ではないこと、又は、適法な所持人でないと判断し売却の執行を中止したことに正当の理由のあることを立証する必要があるところ、原告の主張する事実だけでは、いまだそのような正当な理由はないし、さらに調査をすべき事情もないから、中井が売却の執行を中止すると、後日、Aが真実の権利者であったとき、被告は損害賠償義務を負担する結果となる。

(二) 本人確認義務違反に対する反論

(1) 被告は、次のとおり、顧客の同一性の確認方法として十分な調査・確認作業を尽くしており、何らの落ち度はない。

① まず、取引申込書には、氏名・住所・電話番号・性別・生年月日・職業及び勤務先の名称・所在地・電話番号を記入することを要し、これらを記載すれば、通常、当該顧客が特定され、その同一性が確認できるが、中井は、まず、これらを記載した取引申込書の提出を求めている。そして、Aの記載した内容は、従前から原告をよく知っていたか又は原告に対する詳細な調査を経たうえでのものであり、中井としては、その記載自体から不審な点を見出すことは不可能であった。

② 次に、コピーは原本と同程度の社会的機能と信用性を有するから、中井が健康保険証のコピーで本人確認をしたとしても落ち度はない。しかも、中井は、その記載内容や体裁を検討したうえ、特に不審な点がないことを確認している。

(2) 原告は、三千数百万円という売却代金を全額現金で支払要求するのは異例であると主張するが、証券会社の窓口では、一〇〇〇万円単位の現金の出し入れは何ら異例ではない。

のみならず、被告が本件株券の提出を受け、売却の取次を受託した相手方はAであるから、約定に基づきAに売却代金を交付することは当然であり、しかも売却代金は現金で交付するのが本来法の求めるところであるから、Aが現金による交付を要求する以上、証券会社としてはAの指図に従うほかはなく、現金支払を要求したことを理由に現金支払を留保することなどできないことはいうまでもない。

(三) 被告には、その従業員に対し、本人確認を常に健康保険証等の原本でなすように教育をすべき義務はなく、本人確認は相当な手段・方法ですれば足りるから、被告自身に過失があるとする原告主張は失当である。

三原告の損害と因果関係

1  原告の主張

(一) 権利喪失による損害

Aは、本件株券の不法取得者か、又は不法取得の事情を知ってこれから譲り受けた者であり、本件株券の承継取得も善意取得もしていない。したがって、本件株券の所有権は、被告による売却前の時点では、原告に帰属していたところ、被告は、原告との関係で何らの権限なく無断でその所有物を売却して交付し、さらに、被告から本件株券を交付された証券会社(新日本証券株式会社)がこれを善意取得した結果、原告は本件株券の所有権をも喪失したのであるから、被告は、原告の権利を違法に侵害したことになる。

その損害額は、右売却時の時価である三六二四万円である。

なお、仮に損害額は口頭弁論終結時の時価を基準にすべきであるとする場合、前記の無償交付、株式分割及び配当(前記実施ずみの配当のほか、平成五年三月末日を基準として一株当たり五円の配当が見込まれるから、これも加算する)を考慮すれば、原告の損害額は一六四九万〇四〇〇円である。

(二) 売却代金の損害

本件株券の売却代金三六二四万円は、本件株券に代わるものであるから、当然原告に帰属するものである。しかるに、被告は、これをAに交付したので、原告は、同額の損害を被った。なお、委託手数料等は、Aの負担すべきものであるから、右損害額から控除する理由はない。

(三) 債権侵害による損害

Aは、本件株券の所有者ではなかったのに、その売却代金三六二四万円を不法に領得しているのであるから、その所有者たる原告は、Aに対し、不当利得返還請求権(または不法行為に基づく損害賠償請求権)を有する。しかるに、被告が、Aの氏名・住所等の身元を確認しなかったため、原告は事実上この権利を行使できない。よって、同額の損害を被った。

(四) 因果関係

被告が権利者調査義務・本人確認義務を遵守していれば、本件株券の売却及び善意取得による原告の所有権喪失は生じなかったし、売却後も売却代金の交付を留保していれば、原告は右喪失による損害を容易に回復することができたから、いずれにしても原告の損害は発生しなかったのであって、被告の過失と原告の損害との間には因果関係がある。

2  被告の主張

(一) 権利喪失による損害について

不法行為時を基準とする損害額の主張は争う。原告の損害額は、原則として、口頭弁論終結時の東洋テック株式の時価(一四二〇円)を基準として評価すべきである。原告は、株券喪失から今日までの過程で、最も株価が高騰した時期の売却代金額を損害額として主張しているが、本件売却代金額をもって損害と主張するのであれば、原告が本件株券を所持していたならば、全株券八〇〇〇株を一株当たり四五三〇円以上で売却したであろう蓋然性を主張・立証すべきである。

(二) 売却代金の損害について

売却代金が原告に帰属する根拠はないから、主張自体失当である。被告は、Aの売却取次の委託に基づいて、本件株券を市場で売却して売却代金を得たのであるから、その売却代金はAとの契約に基づいてA本人に交付すべきものである(商法五五二条二項、民法六四六条一項)。

(三) 債権侵害による損害について

Aが法律上の原因なくして本件株券の占有を取得していたとすれば、Aの原告に対する不当利得返還義務の内容は、本件株券そのもの(現物)の返還であり、売却処分後でも本件株券自体の返還は可能である。現物返還を不能と解しても、Aの返還義務の内容は、本件株券の客観的価値であり、それは口頭弁論終結時を基準として評価すべきである。

原告がAに対し不当利得返還請求権を有していたとしても、被告がAの氏名・住所を確認していないことをもって、侵害行為と評価すべきであるとの主張は失当である。

Aの氏名・住所が判明したとしても、Aは犯罪者であって、原告がAから何らかの金銭を回収する可能性は皆無であるから、原告には被告の行為によって生じた損害はない。

(四) 因果関係について

そもそもA又はその前者に本件株券について善意取得が成立していないか不明であるうえ、仮にAが無権利者であり前記売却によって初めてその譲受人に善意取得が成立したとしても、原告が盗難にあった時点で、いつ善意取得が生じてもおかしくない状況が生じており、その限りの損害は既に発生していたというべきであるから、被告の過失によって原告主張の損害が発生したということはできない。

また、被告がAと「上田一夫」との同一性に疑問をもったとしても、被告にできるのは、Aの注文を断り、その持参する株券を受け入れないか、既に受入れていれば返還することである。したがって、被告が本人確認の結果、本件売却注文の執行をしなかったとしても、原告は依然として、本件株券の占有を回復することはできないから、被告の過失と原告の損害との間には因果関係が存しない。即ち、被告に過失があろうとなかろうと原告の損害の回復はできないのであり、原告の損害は、本件株券を喪失したときに発生していたというべきである。

四過失相殺等の抗弁

1  被告の主張

(一) 共同不法行為者間に主観的共同関係が存しないとき、寄与度・違法度による減責を認めるべきところ、仮に被告に不法行為責任があるとしても、原告にかかる損害を与えたのは、極めて綿密に準備されたAの犯罪行為に基づくものであり、原告に生じた損害の全部について、被告がAと同一内容の損害賠償義務を負うと解するのは公平ではないから、賠償額は被告の寄与度・違法度に相応した金額に限定すべきである。

(二) 株券は交付のみによって譲渡でき、その占有者は適法な所持人と推定され、かつ善意取得が認められている。したがって、株券の占有を喪失すると現金と同様にその経済的価値を失う蓋然性が極めて高い。しかも、本件株券は、相当高価であったから、原告としては、これを適正に管理すべきことは当然である。

ところが、原告は、本件株券を適正に管理していなかったためその占有を喪失した。これはひとえに原告の杜撰な管理の結果であり、原告が本件株券の所有権を喪失した原因の大半は原告自身にある。

(三) さらに原告は、本件株券の喪失に気付くのが遅れ、盗難事故発生の届出が本件売却後にしかなされなかった。仮に、事故届が本件売却前になされていたならば、被告としては、たとえAから本件株券の売却の取次の委託を受けても、本件株券が盗難株券であることを知りうるから、原告が本件株券の所有権を回復し得た可能性があった。したがって、原告において本件株券の占有を喪失したことに気付かず、事故届の提出をしなかったことは著しい過失である。

(四) 以上のとおり、原告に損害が発生した責任の大半は原告自身にあるというべきであるから、仮に被告に過失があったとしても、それは極めて軽微であり、大幅な過失相殺がなされるべきである。

2  原告の主張

(一) 原告が本件株券の占有を喪失したことに過失があったとの点は否認する。本件株券は、東洋テックから原告へ送付される過程で詐取又は盗取された可能性が高い。

(二) 原告が本件株券の喪失に気づくのが遅れたことは認める。しかし、一般人としてよくある軽微なものに過ぎないし、仮にそれに早く気づいて事故届を出していても、現在の事故届制度は不完全で、大阪市において他の証券会社に提出した事故届が被告奈良支店によって必ず照会されるか否か不明であるから、原告の右過失は前記損害とは因果関係がない。

第四争点に対する判断

一証券会社の株式売却取次にあたっての注意義務について

1 一般に、他人の所有物を無断で処分すれば、その占有回復を困難にし、善意取得制度(民法一九二条、商法二二九条、手形法一六条、小切手法二一条等)が適用される場合には、その所有権を喪失させることにもなるから、これが違法であることは明らかである。そして、所有者の意に反してなされる処分行為を取り次ぐ行為も、その情を知り、又はこれを知りうべき状況が存在するのに過失によりそれを知らずに行えば、委託者と共同不法行為となり、その責を負うことになるから、物の処分を委託された者は、委託者が真の権利者であるかにつき注意する義務を負うことは当然である。

2 そして、今日の証券取引の制度と実態をみるに、上場株券の場合、大半が証券取引所で取引され、定型化・組織化された競争売買により機械的に売買契約が成立していくから、仮に売却取次の委託者が真の権利者でなかったとしても、買受人によってほぼ確実に善意取得され、その結果、株券を盗取されるなどした真の権利者にとっては、権利喪失が生じやすい状態にあるといえる。このような実情の中で、証券会社は、証券取引所での取引を独占的に認められ(証取法二八条)、証券取引に係わる諸々の知識・経験も蓄積された専門家的存在でもあり、取引の流れにおいては、無権利者による売却や取次委託の場合に、その権利者性を確認して真の権利者を保護しうる最後の関門として位置するから、その地位に応じて、真の権利者を保護すべき一定の役割を期待されることは理解しえないことではない。

3 ところで、前記証券会社の本人確認義務等に関する諸規程は、証券会社に対し、委託者の同一性につき本人確認義務を課しているところ、これは公正慣習規則九号三条が示すように顧客の氏名・住所・連絡先、職業・年齢、資産状況、有価証券投資の経験の有無等を確認することによって投資の適合性を確保したり、取引に関する報告・連絡が確実に履践されることを確保することなどを通じて、証券取引による投資活動を保護し、あるいは、脱税や犯罪を防止するなど公法上の目的から定められたものであり、これらの目的と無関係に証券所有者の静的安全を保護することを直接の目的とするものではない。したがって、右諸規制を遵守し本人確認をすることが当然に不法行為における注意義務になるとは言えない。しかしながら、委託者に対する厳格な本人確認が、違法な株券の処分を規制する事実上の効果を持つことは容易に推測できるところであり、他人の所有物の無断処分という違法行為を回避するためには、本人確認は重要かつ有効な手段であるといえるから、その限りで過失の判断において考慮するのが相当である。

4 しかし、他方、株券のように重要な財産は権利者による厳重な保管が期待されるものであり、通常、その所持人は、真の権利者ないしこれから処分につき委託を受けた者である蓋然性が高く、これに一応の信頼を置くことが許されるものというべきである。そして、法も、株券の占有者を適法な所持人と推定し(商法二〇五条二項)、株式を譲渡する場合も株券を交付するだけで足りるものとし(同条一項)、株券を取得した者に悪意又は重大な過失がない場合は善意取得を認めている(商法二二九条、小切手法二一条)。これらの諸規定は、株式の流通性を促進し、取引関係に立った者の安全を重視しようとするものである。

5 被告は、これらの規定を根拠として、重過失がある場合のみ証券会社が責任を負えば足りると主張するが、権利推定の規定があるからといって、直ちに軽過失ではなく、重過失を基準とすべきものとする理由はないし、善意取得制度も、真の権利者の保護と取得者の保護との調整において、取得者の保護を重視したものであり、証券会社が株券の売却を取り次ぐ場合の注意義務を直接定めたものではなく、取次委託の場合にこれを適用ないし準用する規定もないことからしても、右制度のゆえに、他人の所有物の処分という不法行為における注意義務の判断において、当然のごとく悪意又は重過失を基準とすべきものと解するのは相当でない。

6 もっとも、これらの制度が株券の流通促進を図っていることからして、証券会社は、委託者の権利者性に疑問を生じさせるような特段の事情がない限り、株券の売却取次の受託に際しても占有者が適法な所持人であるとの法律上の推定を前提として対応すれば足りるのであって、このような前提を否定して、すべての場合に厳格な調査を要求することは必要がないばかりか、右規定の趣旨を没却することにもなりかねず、妥当でないものというべきである。

7 以上のような諸事情を勘案すれば、証券会社は、株券の売却の取次を受託する際には、委託者がその株券の権利者であるか否かについて注意する義務があるものというべきであるが、その義務の内容及び程度については、株券の占有者は適法な所持人であることが法律上推定されていることなどを前提にしつつ、前記特段の事情がある場合は、厳密に権利関係の調査や本人確認を行い、右事情がない場合は、多数の有価証券の受託業務の迅速な実行を阻害しないような確認方法を取れば足りるのであって、委託者について不審を窺わせる事情の有無・強弱に応じて、その調査の種類や程度を判断するのが相当と解される。

二被告の過失について

1  被告による本件株券の売却の経過

〈書証番号略〉、証人中井智美、同宗智子及び文中掲記の各証拠によれば、次の事実が認められる。

(一) Aの来店

(1) 被告奈良支店は、近鉄奈良駅の駅前広場の目の前にあり、一見客が多い店舗であるところ、平成二年一二月二一日(金曜日)午後三時二〇分ころ、これまで取引のない四〇歳位の上田一夫と名乗る男性Aが同支店を訪れ、中井に対し、「今日、上場された東洋テック株を持っている。売りたいが、どうしたらよいか。また、税金についてはどうなるか」と尋ねた。

(2) 中井は、税金関係に詳しくなかったので石原総務課長に尋ねたうえ、「上場に際して取得したもの(公募・入札)は、源泉分離課税が選択できるが、この場合は買付証明が必要になる。それ以外は、申告分離課税になり、支払調書が税務署に提出される」旨答えたところ、Aは、被告会社で売却してもらうことになると思うと述べ、必要書類を求めた。

(3) 中井は、Aが株券本券を持参しておらず、被告と取引もなかったことから、Aに対し、取引口座を開設し、本人確認の書類が提出されたうえ、株券本券が入庫されないと取引はできないことを告げたところ、Aは、本人確認書類は健康保険証でよいかと尋ねたので、中井はそれでよいと答え、取引口座を開設するための取引申込書(〈書証番号略〉。但し、未記入のもの)と申告分離の申請書等を交付した。

(4) Aは「株券本券と必要書類を一二月二五日の朝に郵便で届くようにする」と述べたので、中井はこれを了承し、Aは、それらが被告奈良支店に届いたころを見計らって改めて電話する旨述べて、同支店を出た。

(5) この間の応対の所要時間は約一五分くらいであった。

(二) 売付約定及び執行

(1) 平成二年一二月二五日(火曜日)、Aから被告奈良支店に本件株券と取引申込書(〈書証番号略〉)、『取引口座(保護預り口座)設定申込書及び届出書』(〈書証番号略〉)等の必要書類及び健康保険証のコピー(〈書証番号略〉)が普通郵便で郵送されてきて、被告の総務課がこれを受け入れた。

(2) 中井は、午前九時半ころ総務課よりこれらを受け取った後、普通郵便で送られてきたことに疑問を感じたが、委託者の都合かと特に気に止めることもなく、本件株券を確認するとともに、取引申込書に記載された事項(氏名は上田一夫、生年月日は昭和一八年一〇月八日、自宅住所は奈良市西大寺国見町一の二の五二〇号、自宅電話番号は〇七四二―二二―五九三三、勤務先は大阪市中央区東心斎橋一丁目五―九フクトクビジネス株式会社、勤務先電話番号は〇六―二五二―一一〇一)と健康保険証コピーの記載事項が一致していること、Aの生年月日から同人の年齢が四七歳であったことを確認した。さらに、売買金額が三〇〇〇万円以上の大口取引となるため、被告奈良支店(五階)備付の住宅地図(〈書証番号略〉)で届出住所が近鉄西大寺駅前にある「西大寺駅前第二団地」で、その五階に「上田治男」名の住戸があることを確認し、Aの家族であると推測した(なお、原告は、中井が住宅地図を見たのは、原告が本件について被告奈良支店に事情説明を求めた後であると主張し、原告がその根拠とするのは、原告が同支店に問い合わせをした後、同支店長と中井が右団地に赴いて初めてその五階に「上田」姓の住戸があることに気付いた旨、同支店長から聞いたというものである(〈書証番号略〉)。しかし、被告奈良支店が本件株券の売却の取次をしたことを原告が知ったのは、後記のように本件株券の名義書換手続がなされた平成三年二月六日以後のことであり、それ以前に中井は、本社から郵送した取引報告書が返戻されたのに対し、Aの住所を「奈良市西大寺国見町一―二西大寺駅前第二団地五二〇号」と補足して、平成三年一月一四日に再度取引報告書を郵送しており、Aの住居が右団地内にあることは知っていたと考えられることからみれば、支店長が右のような話を原告にしたというのは不自然である。他にも本件株券を入庫した際に住宅地図を確認した旨の中井の証言を疑わせる事情は認められない)。

(3) 中井が右確認手続を了した後、総務課本券受入係がコンピューター(オンライン)に入力し、平成二年七月二三日から実施されている「株式事故情報照会サービス」を利用して、事故株でないことを確認したうえ、口座開設手続をし、本件株券の入庫処理をした(〈書証番号略〉)。

(4) 同日、午前一〇時ころ、Aから中井宛に電話が入り、本件株券が届いていることを告げるとAは、本件株券全部を成り行きで売却するよう指示した。右指示を受け、中井がAに約定報告の方法を尋ねたところ、Aは「妻も働いているので自宅には昼間誰もいない」旨述べ、中井が「会社に電話さしてもらいましょうか」と尋ねたのに対し、「会社には連絡してほしくない。自分の方から電話する」と答えた。

(5) 中井は、直ちに株式売付注文伝票(〈書証番号略〉)を作成し、大阪証券取引所において、本件株券の売却手続をとった(受注一〇時八分、発注一〇時一二分)。そして、同日、一株四五三〇円で八〇〇〇株全部(合計三六二四万円)が売却された。

(三) 取引報告

(1) 平成二年一二月二五日午後四時三〇分ころ、Aから中井宛に電話が入り、中井は、前記のとおり売却を実施した旨伝え、預り証(〈書証番号略〉)と売却代金の受渡方法を尋ねた。Aは、預り証については「四日後(二八日)に受渡しに行くのでそれまで置いておいてほしい」と答え、売却代金については「現金が必要なので、出金してほしい」と答えた。中井が、金額の大きい場合は、経理処理上、午前一〇時以降でないと用意できないと説明すると、Aはこれを了解して電話を切った。

(2) 中井は、総務課経理係の中谷に対し、同月二八日の朝に三六〇〇万円余の支払がある旨連絡し、現金の準備を依頼した。

(四) 受渡

(1) 平成二年一二月二八日(金曜日)午前一〇時ころ、Aが被告奈良支店に来店し、宗に対し、売却代金の受取りに来た旨伝えた。この日Aは、怪我をしたように右腕を肩から吊っていた。

宗は、「上田一夫」の取引状況一覧表を端末機で打ち出し、これをAに提示して売却代金の確認を求めるとともに、所定の「引出請求書兼受領書」(以下「受領書」という)を交付して、その署名・押印を求めた。Aは、受領書に、左手で、日付・金額を記入し、「上田一夫」と署名・押印した(〈書証番号略〉)。宗は、印鑑照合機に「上田一夫」の口座番号を入力し、取引申込書に押捺された届出印を表示させ、Aの所持していた印鑑と照合し同一であることを確認したうえ、受領書を中谷に提示した。

(2) しかし、この時点ではまだ現金の準備ができておらず、中谷から本件株券の預り証に署名・捺印を求めるよう指示されたので、Aにその旨を申し出て、署名(左手)・捺印をしてもらった(〈書証番号略〉)。その後Aは、現金を持参のバッグに入れておくようにと指示して一旦店を出、同日午前一〇時三〇分ころ、再び来店し、宗は、本件株券の売却代金三六二四万円から委託手数料二二万〇九〇〇円、消費税六六二七円及び有価証券取引税一〇万八七二〇円を控除した現金三五九〇万三七五三円を交付した(〈書証番号略〉)。

(五) 取引報告書の送付

(1) 被告の東京本店は、本件株式の売却に関する取引報告書をAの届出住所「奈良市西大寺国見町一―二―五二〇」に郵送したところ、これが配達されずに返戻された(〈書証番号略〉)。平成三年一月、東京本店からその旨の連絡を受けた中井がAの自宅(取引申込書に記載された電話番号)に電話したが、呼出音は鳴るものの誰も応答しなかった。そこで、中井は、届出住所の記載不備を疑い、「奈良市西大寺国見町一―二西大寺駅前第二団地五二〇号」と補足して、平成三年一月一四日、再度、取引報告書を郵送した。しかし、右郵便も返戻されてきた(〈書証番号略〉)。

(2) 中井は、Aから昼間は不在だと聞いていたので、夜間、何度か自宅に電話したが、なおも呼出音は鳴るものの誰も応答しなかった。そこで、中井は、勤務先には電話しないでほしいとAから言われていたが、やむなく、勤務先とされていたフクトクビジネス株式会社に電話したところ、応対に出た同社従業員は、「席をはずしている」と返答し、Aと連絡することはできず、結局、取引報告書を交付することができなかった(原告は、フクトクビジネス株式会社には「上田一夫」は在籍しないから、右主張は虚偽であると主張するが、〈書証番号略〉によれば、この当時、同社には監査役の上田外男が在籍していることが認められ、両者の氏名の類似性からすれば、同社の従業員がこのような応答をしたことも頷けないではない)。

被告は、その後、本件株券について原告から事故届が出されていることを知った。

(六) その後の経過

(1) その後の警察の捜査や原告及び被告が調査したところによれば、原告の身上関係と、Aが記載した取引申込書や郵送してきた健康保険証の記載とは、次のような相違があることが判明した(〈書証番号略〉)。

(項目)

(原告)

(Aの記載)

本人の生年月日本人の住所

昭和六年九月一九日

昭和一八年一〇月八日

本人の住所

奈良市鳥見町二丁目五―六

奈良市西大寺国見町一の二の五二〇号

事業所の名称

株式会社福徳銀行本店本部

フクトクビジネス株式会社

妻の氏名

上田美恵子

上田恵美子

妻の生年月日

昭和一二年一月三〇日

昭和二〇年一〇月七日

(2) Aが自宅の電話番号として記載した「〇七四二―二二―五九三三」は、奈良県が契約して奈良市川上町芳山九〇五(「うぐいす亭」夏場のみ開設している施設)に設置している公衆電話の番号であり、Aが自宅の住所として記載した所は、西大寺駅前第二団地を指すが、同団地には五一九号室までしかなく、五二〇号室は存在しない(〈書証番号略〉)。

(3) Aが取引申込書に記載した勤務先(フクトクビジネス株式会社)は実在しており、その名称、住所、電話番号はいずれも正しいが、同社は、大阪府(難波社会保険事務所)の健康保険に加盟しており、Aが郵送してきた健康保険証は、福徳銀行健康保険組合の正規の被保険者証を使用して、被保険者及び被扶養者欄を手書きで記入し、交付日、記号、番号、事業所の所在地・名称をそれぞれゴム印で作成したものであり、フクトクビジネス株式会社のそれとは書式自体全く異なっている(〈書証番号略〉)。

2  以上のような本件株券の売却の経過を前提として、被告の過失の有無について判断する。

(一) 原告は、Aが本件株券の売却取次を委託した際、委託者が正当な権利者でないことを疑うべき異例な状況があったと主張するので、順次検討する。

(1) 原告は、Aが新規上場直後に本件株式八〇〇〇株の売却取次を委託した点について、Aは本件株式を公募引受によって取得したものではないと言っていたのであるから、発行会社と特別な関係に基づいて上場前から多量の株式の割当を受けていたことになるはずのところ、そのような者が新規上場直後に八〇〇〇株もの多量の株式を売却するのは、通常ありえないと主張する。

しかし、株主の中には、上場会社との特別の関係がなくなっている者もいるであろうし、急に現金が必要になったり、上場直後の価格の方が高いと判断するなど個々人の都合や思惑により、上場前から所持していた株式を上場直後にまとめて売却することもありうるのであって、特段の疑惑につながるものとは認められない。

(2) 原告は、公開前から所有していた株式の譲渡にかかる譲渡所得税については、上場後一年経過後に売却する場合は源泉分離課税を選択でき、結局譲渡価額の一パーセント(本件では約三六万円)の納税ですむのに、上場後一年内の売却ではこの制度を利用できず、申告分離課税によってはるかに高額(本件では約四〇〇万円)の納税をしなければならない(租税特別措置法三七条の一〇及び三七条の一一)から、性急な売却は不自然であると主張する。

確かに特別の事情がない場合は、原告の指摘するような税法上の配慮をするのが通常であるとはいえるが、申告分離課税の場合、他の株式取引で損失が発生していれば課税されることはないから、不利かどうかは場合によるし、高い税金を払ってでも現金が必要という場合もあるし、価格変動(下落)を予想して税法上の優遇措置を放棄してでも上場直後に売却した方が利益が大きいと判断することもありうる。いずれにしても、Aは、税金関係についての教示を受けたうえで、売却を委託したのであって、特に不自然な行動とは考えられず、このような場合にまで委託者を疑って、通常行っている以上の調査をすべきものと判断することはできない。

(3) 原告は、Aは、売却価格について「成り行きで」と指示するなど相当株式取引の経験を有するとみられ、なじみの証券会社もあるはずなのにこれに委託せず、あえて全く面識のない被告会社に来店していることを指摘する。

しかし、なじみの証券会社を決めて株式取引をしていない者は、このような売却指示の用語を知らないとまではいえず、右指示のみでAになじみの証券会社があるとまで推測できないし、仮にそのような証券会社があったとしても、種々の都合により、別の証券会社を選択することもありうるのであって、これも疑惑を生じさせるような事柄とはいいがたい。

(4) 原告は、本件株券等が書留郵便ではなく、普通郵便で送付されてきた点を追及を困難とする工作であると主張する。

しかし、書留郵便も特に身分を証明する必要などはないのであるから、追及を避けるための工作と考える理由はなく、むしろ偽名を使用しているため書留郵便の場合の補償を受けることができないから、書留にする必要を感じなかったためではないかと推測されるが、今日の日本の郵便事情を見る限り、普通郵便での郵送において事故の生じる危険性はそれほど高いものとはいえず、発信者が書留郵便発送のための手続・時間を嫌ったことも十分想像されるのであって、委託者の不注意や無神経さに疑問を持つことがあったとしても(証人中井もこの点についてはおかしいと思った旨供述している)、無権利者による売却委託であると推認する事情とまでは判断できない。

(5) 原告は、Aは、取引の報告につき、被告から自宅や職場への電話を断っている点を不審と主張するが、自宅への電話は、昼間は誰もいないことを理由に断ったものであり、また、株式取引をしている事実を勤務先に知られたくないことも少なくないから職場への電話を断ることも特段不自然なことではないし、Aから約束どおり電話をかけてきているのであるから、中井らが特に不審に思わなかったとしても非難されるべきではない。

(6) 原告は、預り証の送付を断ったことも不審点と主張するが、預り証は通常書留で送付されるのであり、昼間自宅にいない者がその送付を断り、受取りに来店すると告げているのであるから、これも必ずしも不審な行動とはいえない。

(7) 原告は、預り証・領収証に利き手でないと推測される左手で署名・記入したことも委託者に不審を抱くべき事情であると主張するが、Aは、当日、怪我をしたかのように右腕を肩から吊っていたのであって、やむをえないものであり、これを偽装工作と見抜くべきような事情は特に認められない。

(8) 原告は、Aが売却代金が高額であるのに現金で受領したことをも不審点として挙げるが、証券取引において、高額の現金が現実に授受されることもままあることに鑑みれば、これを特に異例なこととも認められない。

(9) 以上のとおり、本件株券売却の取次を受託するにあたって、Aの言動には、通常の取引とは多少異なる部分があるといえなくもないが、それぞれ特に不審なものとまでいうことはできないし、また、全体を総合しても、いまだAの無権利を強く疑わせる程度にまでは至っていないというべきであるから、厳密に権利関係の調査や本人確認を行う必要性は認められない。

(二) もっとも、その場合でも通常行うべき権利確認及び本人確認の義務までが免除されるものではないから、以下、本件における被告奈良支店の確認業務の内容について検討する。

(1) 中井は、郵送されてきた本件株券を確認し、また、取引申込書の記載に不備もなく、面談したときに推定したAの年齢と大きな差がなかったことを確認した。

(2) 原告は、日本証券業協会平成二年六月二八日付協会員宛通知が本人確認の方法について詳細な規定を設けており、そこでは「各種健康保険証」を確認書類に掲げるとともに、「住民票の写」をも掲載しているから、健康保険証については原本確認を必要とする趣旨であることは明らかであると主張し、これに対し、被告は、「住民票の写」とは、市町村長が市町村に備えられた「住民票」の原本に基づいて発行した「写」であり、それ自体が市町村長の作成した「原本」であるから、「住民票」はコピーでもよいが「健康保険証」は原本で確認する必要があるとするのは誤りであると反論する。

被告の反論からすれば、住民票も健康保険証もコピーを許容したものでないことになるから、右反論は必ずしも正鵠を射たものとはいえないが、いずれにせよ、前記のとおり、右通知の内容は直ちに不法行為における注意義務になるものではないから、仮に右通知が健康保険証原本による本人確認を要求するものであるとしても、その不遵守が直ちに不法行為における過失となるわけではなく、他の事情と相まって、委託者を権利者と誤った過失があるか否かが問題となるに過ぎない。

しかるところ、コピーは、社会生活上、原本に代わる証明文書として一般に通用しているものであり、性能の向上により改竄が容易になっている状況があるとはいえ、常に原本を示さなければならないものとまではいえない。

そして、本件健康保険証のコピーは、事業所として記載されたフクトクビジネス株式会社の加盟している健康保険ではなく、被保険者の生年月日・住所や被扶養者である妻の氏名も誤っているなど、内容的には虚偽のものであるが、真正な押印もなされている健康保険組合の正規の用紙を使用したものであり、形式的に不自然さはなく、コピーで見る限り、記載事項を改竄したり、切り貼りをしたような不自然な点も認められない(〈書証番号略〉)から、他に不審点もない本件の場合、必ずしも原本の提示を求めなければならないものとまではいいがたい。

(3) その他、中井は、住宅地図で取引申込書に記載された住所に「上田」姓の住戸があることを確認している。西大寺駅前第二団地の五階には五一九号室までしかなく、取引申込書に記載された五二〇号室が存在せず、厳密に見ると架空の住所が記載されていたことになるが、住宅地図からそのような事実は一見して明らかとはいえず、現地を訪れてまで確認しなければならないような状況も窺われない。

(4) 被告の総務課本券受入係においてオンラインを利用して本件株券が事故株でないことを確認している。

(5) 宗は、Aが所持している印鑑を印鑑照合機を使用して、取引申込書の印影との照合をし、預り証や受領書に、左手ではあるがA自身に署名させている。

(三)  右(一)のとおり、Aの本件株券の売買委託については、本件株券が盗難株券であること、その他Aが権利者であることに疑問を生じさせるような特段の事情があったとはいえないうえに、右(二)のとおり、被告の従業員は、被告奈良支店における通常の業務の流れに従って、①委託を受けた株券を確認し、②取引申込書の記載事項を点検し、③面談した折りの委託者の年齢と相違がないことを確かめ、④健康保険証の記載事項と照合し、⑤住宅地図により委託者が記載地に居住していることを調査し、⑥オンラインによる事故株の調査をし、⑦印鑑を照合し、⑧預り証や受領書に委託者自身の署名を受けているのであるから、権利者の確認においても本人の確認においても、前記一のような判断基準に立って要求される確認作業は十分に行っているものといえ、Aの委託により本件株券を売却した被告の行為に過失があったとは認められない。

三よって、その余の点について判断をするまでもなく、原告の請求は理由がないので、これを棄却することとし、主文のとおり判決する。

(裁判長裁判官井垣敏生 裁判官田中昌利 裁判官清水俊彦)

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